婚前契約書や夫婦間の誓約書を公正証書にすれば「証拠力が高まり安心だ」と考える方は多いでしょう。確かに、公正証書は公証人という法律のプロが関与して作成する公式な文書であり、高い証明力があります。また、内容に金銭の支払い義務が含まれていれば強制執行力(差押え等)を持たせることも可能です。例えば、浮気の慰謝料や養育費の支払いを公正証書にしておけば、万一相手が支払わない場合でも裁判を経ずに強制執行ができるため安心感があります。

しかし、公正証書化にはメリットばかりでなく、法律上の制約や実務上の難しさも存在します。以下では、公序良俗との関係、強制執行できる範囲、公証人の対応といった観点から、公正証書化の注意点を解説します。

公序良俗に反する内容は無効になる

公正証書にすれば契約内容が何でも有効になるわけではありません。契約内容が公序良俗(社会の秩序や善良な風俗)に反する場合、無効と判断されます(民法90条)。夫婦間の誓約書では、感情的になって極端な条件を盛り込みがちですが、注意が必要です。例えば「浮気をしたら罰金として○○万円支払う」といった条項で、その額が極めて高額すぎたり一方にのみ不当に重い負担を課したりしている場合、裁判所で無効(または減額)と判断されるおそれがあります。また、「離婚する場合は一切財産分与しない」「どんな理由でも離婚しない」といった条項も、離婚や財産分与の権利を過度に制限するものとして公序良俗に反する可能性があります。公正証書にしてもこの原則は変わらないため、内容が法律に適合し公平であることが重要です。

金銭支払義務以外は強制執行できない

公正証書には、債務者が強制執行を受けることをあらかじめ認める「強制執行認諾条項」を付けることで、裁判を経ずに直ちに強制執行できる効力(債務名義)を持たせることができます。ただし、この効力が認められるのは一定の金銭の支払い請求などに限られています。お金の支払い以外の義務(行為義務)は、公正証書にしても直接強制することはできません。例えば「二度と浮気をしない」という約束自体を、公正証書によって強制することは不可能です。相手が再び浮気をしても、公権力がその行為を止めたり罰則を科したりしてくれるわけではなく、最終的には離婚や損害賠償請求といった対応を検討するしかありません。

そのため、浮気防止の誓約書を公正証書化する場合でも、現実的には「浮気をしたら慰謝料として○○万円支払う」という金銭支払いの違約金条項を入れる形になります。しかしこのように将来の浮気発生を条件とする違約金については、契約時点でまだ債務が発生していないため、公証人が強制執行条項を付けることに消極的です。実際、公証人は「現在具体的に発生していない債務には強制執行力を持たせられない」と判断し、強制執行認諾条項自体を認めてくれないケースもあります。その場合、公正証書にしても結局は通常の契約書と同様、証拠としての意味しか持たないことになります。

なお、養育費や浮気の慰謝料のように具体的な金銭支払義務が確定している場合には、公正証書によって強制執行力を持たせる実益は大きいです。離婚時の養育費合意や不貞の慰謝料支払いでは、公正証書を作成しておくことで、支払いが滞ったときに速やかに差押え等の法的手段を取れるため、実務的にもよく利用されています。ただしこれも「○万円を○回の分割で支払う」といった金額・方法が明確な債務に限られ、相手の行為自体を強制できるものではない点は押さえておきましょう。

公証人が作成に応じない場合がある

公正証書は公証人が当事者から依頼を受けて作成しますが、公証人には明らかに無効な内容の公正証書作成を拒否する権限があります。そのため、夫婦間の契約書であっても、法律上の根拠に乏しい条項や公序良俗に反するおそれのある条項が含まれている場合、公証人から削除や修正を求められたり、作成自体を断られたりすることがあります。例えば「毎週必ずデートをする」「夫の飲み会は禁止」といった私生活上の約束事は法律上の義務とは言えず、公証人によっては公正証書に盛り込むことを認めないでしょう。また「浮気をしないこと」という誓約そのものは道義的な約束であって法律上の権利義務ではないため、慰謝料支払いと無関係な純粋な行為義務の文言は、公正証書に馴染まないとして削除を指示される場合もあります。公証人の判断は各人で多少異なることがありますが、公正証書にできる内容には限界がある点に留意が必要です。

さらに、公正証書は一度作成すると内容の変更が容易ではないことも実務上のネックです。夫婦間の取り決めは状況に応じて変えていく必要が生じるかもしれません。しかし、公正証書の内容を後日変更するには、原則として再度公証役場で手続きを踏み、新しい公正証書を作成し直す必要があります。その都度、手間や費用がかかるため、結婚生活の中で柔軟に約束事を見直したい場合には不向きと言えます。

実務では内容の充実と合意プロセスを重視

以上のように、公正証書化には証明力・執行力という利点がある一方で、内容面・実行面での制約が多く、必ずしも万能な方法ではありません。私たち契約書作成の専門家としても、婚前契約書や夫婦間の誓約書については、「とにかく公正証書にすれば安心」という考え方はおすすめしていません。それよりも契約内容そのものを充実させること、つまり当事者同士がしっかり話し合って現実的かつ法的に有効な取り決めをすることが何より大切です。たとえ公正証書ではない私文書の契約書でも、内容と手続きが適法であれば十分に法的効力があります。実際、契約書違反があれば民法の規定に従い損害賠償責任などが生じ得るため、公正証書でなくとも契約は契約として機能します。

公正証書以外の方法でも、合意の証拠としての信用度を高める工夫は可能です。例えば公証人による「私署証書の認証」を受ければ、当事者が契約書に署名・押印した事実を公証人が証明してくれるので、公正証書ほどではなくとも証明力を高めることができます。また近時の民法改正により、従来は「婚姻中の夫婦間の契約はいつでも一方的に取り消せる」とされていた規定(旧民法754条)が廃止されることになりました。遅くとも2026年までに施行されるこの改正によって、夫婦間の合意が一方的に無効にされてしまうリスクも減り、今後は夫婦間の契約がより重く法的に扱われる傾向になります。

とはいえ、やはり契約の基本は当事者が納得できる現実的な内容にすることです。公正証書化はその内容が適切で、かつ金銭支払いなど公正証書に適した項目がある場合に初めて大きな意味を持ちます。「浮気しない」という気持ちの問題まで無理に公正証書にする必要はなく、むしろ二人で約束を書面に残すプロセス自体が関係改善に役立つケースも多いものです。公正証書にこだわるあまり肝心の内容が疎かになっては本末転倒ですので、専門家としては形式より実質を重視することを強く提案いたします。必要に応じて行政書士や弁護士に相談し、ご夫婦の事情に即した最適な方法で契約書や誓約書を作成されると良いでしょう。