1. 経営者にとって「結婚」は最大のM&Aである

経営者にとって、結婚は人生のパートナーを得る慶事であると同時に、事業の継続性(ゴーイング・コンサーン)を左右しかねない重大な法的イベントです。

欧米の経営者やセレブリティの間では「プリナップ(Prenuptial Agreement)」は常識ですが、日本でも近年、スタートアップ創業者やオーナー経営者を中心に、その重要性が急速に認識され始めています。

なぜでしょうか? それは、現代の離婚における財産分与の実務が、経営者にとってあまりにも過酷だからです。 日本の民法では、婚姻中に築いた財産は原則として夫婦の共有財産とみなされ、離婚時には「2分の1ルール」で分割されます。ここで最大の問題となるのが「自社株式」です。

創業時に数万円だった株価が、婚姻期間中に会社の成長と共に数億円、数十億円に跳ね上がった場合、その「価値上昇分」は夫婦の協力による成果とみなされ、財産分与の対象となり得ます。 もし、キャッシュで数億円の分与金を支払えなければ、株式そのものを手放さざるを得ず、それはすなわち「経営権の喪失」を意味します。

結婚というプライベートな事象が、従業員や株主を巻き込む経営リスクに直結する。この構造的リスクを回避し、愛するパートナーと真に安心して人生を歩むために必要なのが、法的にデザインされた「婚前契約書」なのです。

2. なぜ今、「私文書」による契約なのか

ここからが本題です。 婚前契約というと、「公的な手続きを経なければ意味がないのでは?」と誤解されている方が非常に多くいらっしゃいます。 しかし、スピードと柔軟性を最優先するビジネスの現場において、私はあえて**「専門家が作成する私文書(契約書)」**の優位性を提唱します。

2.1. 契約自由の原則と「ハンコの効力」

日本の法律において、契約とは原則として当事者の合意のみで成立します(諾成契約)。 スーパーで買い物をするのも、数億円のM&Aをするのも、本質的には「申込み」と「承諾」の合致です。書面にするのは、その合意内容を明確にし、言った言わないの紛争を防ぐための「証拠」とするためです。

私たち行政書士のような国家資格者が作成し、双方が内容を理解した上で実印を押し、印鑑証明書を添付した契約書は、私文書であっても極めて高い証拠能力を持ちます。 裁判実務においても、「真正に成立した文書」として扱われ、その内容を覆すことは容易ではありません。つまり、「きちんとした契約書」さえあれば、公的なお墨付きがなくとも、法的な拘束力は十分に発生するのです。

2.2. 「情緒的条項」の柔軟性

公的な文書は、その性質上、法的に強制執行できる金銭等の条項以外、記載を嫌がられる傾向にあります。 しかし、婚前契約の真の目的は、金銭の取り決めだけではありません。「家事の分担」「お互いのキャリアの尊重」「記念日をどう過ごすか」といった、夫婦のルールブックとしての側面も重要です。

私文書であれば、こうした**「お二人の想い」や「独自のライフスタイル」を自由に条文化**できます。 「ガチガチの契約書を突きつけて、パートナーに引かれないか心配」という経営者様も多いですが、こうしたソフトな条項を盛り込むことで、相手への配慮を示し、円満な合意形成を図ることが可能になります。これは、私文書だからこそできる「粋な計らい」と言えるでしょう。

3. 法的ハードル「民法754条」の完全攻略

婚前契約の実務において、長らく懸念事項とされてきたのが民法第754条(夫婦間の契約取消権)です。 「夫婦間でした契約は、婚姻中、いつでも、夫婦の一方からこれを取り消すことができる」というこの条文。これを形式的に読むと、「せっかく契約しても、結婚後に取り消されるのでは?」という不安が生じます。

しかし、ご安心ください。現在の法解釈と実務において、このリスクはほぼ払拭されています。

3.1. 「婚前」契約であるという事実

条文はあくまで「夫婦間」の契約を対象としています。 婚前契約は、その名の通り「入籍前(他人である状態)」に締結するものです。したがって、契約締結時点では754条の適用外であり、契約は有効に成立します。 私たちは契約書の日付管理を徹底し、「入籍前の合意であること」を明確な証拠として残します。

3.2. 法改正による条文削除のインパクト

さらに決定的なのが、近年の民法改正の動きです。 2024年に公布された改正法により、この**「夫婦間の契約取消権」の削除**が決定しました(公布から2年以内に施行)。 現在(2025年12月)において、この条文はもはや「過去の遺物」となりつつあります。司法の判断も、条文削除の趣旨(=夫婦間であっても約束は守られるべきという考え方)を尊重する流れに完全にシフトしています。

つまり、今作成する婚前契約書は、将来にわたって**「取り消されることのない、強固な契約」**として機能することが、法的にも裏付けられているのです。

4. 経営者が盛り込むべき「鉄壁の条項」

では、具体的にどのような条項を入れるべきか。 一般のひな形にはない、経営者特有のリスクをカバーする条項設計が必要です。

4.1. 自社株の「完全除外」条項(特有財産の死守)

単に「婚姻前から持っている株は私のもの」と書くだけでは不十分です。 重要なのは、「婚姻後に価値が上昇した分」と「将来受け取る配当」、そして**「株式を売ったお金で買った別の資産(代替財産)」**までを、明確に財産分与の対象外とすることです。

【条項イメージ】 「甲(夫)が保有する〇〇株式会社の株式、新株予約権、およびこれらに付随する一切の権利は、甲の特有財産であることを確認する。婚姻期間中に当該株式の価値が増加した場合であっても、その増加分は甲の経営手腕および才覚によるものであり、乙(妻)の寄与によるものではないことを相互に確認し、財産分与の対象から一切除外する。」

ここまで踏み込んで記載することで、初めて経営権を守ることができます。

4.2. 家庭内NDA(秘密保持契約)

経営者の配偶者は、家庭内の会話で「未公開のM&A案件」「人事情報」「資金繰り」などのインサイダー情報を耳にする機会があります。 万が一関係が悪化した際、これらの情報が漏洩したり、SNSで暴露されたりすることは、企業にとって致命的なレピュテーションリスクとなります。

【条項イメージ】 「甲および乙は、婚姻生活を通じて知り得た相手方の事業、財務、人事に関する一切の情報を秘密として保持し、婚姻中および離婚後においても、第三者に開示・漏洩してはならない。」

ビジネスのNDAと同様の厳しい守秘義務を、夫婦間にも設定します。これが「口止め」としての抑止力になります。

4.3. 経営介入の防止

配偶者が株主としての権利を主張したり、人事に口出ししたりすることを防ぐ条項も有効です。 「会社の経営方針、人事、財務に関する決定権は甲に専属し、乙はこれに関与しない」と明記することで、公私混同を防ぎます。

5. おわりに ~愛と契約は矛盾しない~

「結婚する前から離婚のことを考えるなんて」 そう思われるかもしれません。しかし、リスクを直視し、対策を講じることは、経営者としての責任であり、誠実さの表れでもあります。

曖昧な期待に依存するのではなく、お互いの価値観や財産についての考え方を言語化し、合意しておくこと。 「ここまで話し合えたのだから大丈夫」という確信こそが、パートナーとの信頼関係をより強固なものにします。 婚前契約書は、離婚の準備ではありません。「二人で安心して長く一緒にいるための、最初で最大の共同プロジェクト」なのです。

あなたの事業と、大切なパートナーとの未来を守るために。 私文書作成のプロフェッショナルである当事務所に、ぜひご相談ください。